2012年 08月 29日 ( 3 )

流儀の茶・個人の茶 (林屋晴三さんと千宗屋さん対談にて)

(林屋晴三さんと千宗屋さん対談の対談より 記憶を辿って書き留めておくことに)


林屋さん:

茶道具の現代ということを言えば

今、茶人が驚くほど茶道具をみる眼がないですね


ここにいる千宗屋さんは大したものだが、

家元連中でも、茶道具がわからないのが多いんです

自分の流儀の道具のことは多少詳しいですよ、

でも、茶道具そのものを観る眼がないんですな


今日お集まりのみなさんはお茶をなさるんでしょうけれど、

いかがでしょうか?


これはね、

家元の方にも、よく考えてもらいたい、と宗屋さんにもいいたいんです

家元が流儀の茶を教える立場にあるのは結構ですし、

弟子の方も初めはきちんと流儀の茶の湯を稽古して身につけるべきです

けれども、それがある程度までいったら、

家元の方が茶人個人を解放してあげないと

個人個人の茶の湯というものを認めてあげないと

本当の茶の湯者というのは生まれてこないと思うんです


やはり

ひとりの茶人に茶の湯者としての自覚というものがなければ、本当の茶の湯というものは生まれてこない

そう思うんです

***



さて

如何?
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by so-kuu | 2012-08-29 22:20 | 茶人 | Comments(0)

利休と千家流と現代の茶人たち (「茶の湯の現代」展にて)

茶の湯稽古の先輩にお声掛け頂き、
「茶の湯の現代―用と形―展」を観に行った。

菊池寛実記念智美術館にて、
その日は、
館長の林屋晴三さんと、武者小路千家の千宗屋さんとの対談があったのだ。

その中で、印象に残ったことがいくつかあって、いろいろ考えさせられた。



司会者の問い

「千さんご自身の茶の湯において、現代の茶道具を使う余地はありますか?」

に対して曰く、

「現代の茶道具とはどういうものを指してのことでしょうか?」


司会者「現代に作られた道具、という意味で。」


「それは、もちろん、あります。」

「私は、古い茶道具が好きなので」

「そうしたものと取り合う道具があれば、現代のものでも使います。」

「ただ、現代の茶道具を使おう、とか、茶の湯の現代とかいうことを考えてのことではなくて。」

(これはとても共感した、現代の、とか考えないな、僕も)



会場からの質問

「現代の道具を使うことが千利休の精神を現代に受け継ぐことにもなるかと思いますが、

千さんのその辺についてのお考えを聞かせてください。」

(質問の意味するところを量りかねているように見えたが)

「茶の湯と現代の生活スタイル、ということは、常に考えています」

「利休さんなら、今どんな茶の湯をするだろうか?ということはいつも考えています」

と応えていた。

現代の道具を使うことが千利休の精神を現代に受け継ぐことにもなるか、という質問者の問い(というか質問者の意見?)には直接回答していなかった。




お話をきいていた感じたのは・・・

まず、

千宗屋さんに対する世間の目や評価に対して、本人がやや当惑しているようだ、ということ

特に、

茶道をカジュアルに、だとか、モダン茶の湯、だとかいう動きがみられる中で、

千宗屋がさもその牽引役だ、という風にみられることに、いたく迷惑している様子

(そりゃそうだろうな、それはあまりに浅はかな誤解だ)

現代茶の湯革新の旗手と見られがちな千さんは、自身を

「私は、ある意味では、むしろ保守的だとすら思っています」

と言っている。



現代の道具を使うことが千利休の精神を受け継ぐことにもなるか?

については、

僕は、必ずしもそうではない、と考える。


現代の茶道具、すなわち今モノを取り入れれば、利休居士のなしたような茶の湯の革新や茶の湯文化の大成というようなことになるか?

と問えば、それは全くイコールではない。

見立てや好みをするのは勝手だけれど。
つまらない見立てや好みは淘汰されるだけのこと。


現代のガラクタを取り入れた茶の湯は、
現代の茶の湯、
だけど、
ガラクタの茶の湯

つまらない見立ての現代の茶の湯は、
現代の茶の湯、
だけど、
つまらない茶の湯

ガラクタか、お宝か、
面白いか、つまらないか、
はひとそれぞれだから、
各々が好きな茶の湯をやればいいのだけれど、

現代ということに囚われた時点で、
現代ということに縛られた茶の湯だ

それでは、茶の湯の革新どころではない。

古いか?新しいか?は、実は問題じゃないんだろうな。

むしろ「和漢の境をまぎらす」ように「新・古をサラリと取り合わせる」のが茶の湯巧者だと思うなあ。



千さんが、

「現代の茶道具とはどういうものを指してのことでしょうか?」
と問い直したのは、
「自分の考える道具組の中に取り合うならば、現代に造られたものも使いますよ」
と応じたのは、
そういうところではないかな。

大名物であれ、いわゆる現代作家のものであれ、
伝統的な茶道具であれ、いわゆる見立ての道具であれ、
確かな審美眼をもって吟味しているかどうか?
ということだろう

自分の審美眼がどの程度のものか?
について
ひとはなかなか上手にジャッジできない

というものひとつの問題なんだろうな




ところで、

「千利休の精神を受け継ぐ」ことに、僕個人は、そもそも全く興味がない。

僕は、その必要も感じないし、そうしたいとも思わないし、ましてやその義務など背負っていない。



たしかに

茶の湯をするひとにとって

千利休というひとのやったこと、残したものは

大きな影響力を持っているだろう

かく言う僕だって、もちろん、“千利休の茶の湯”に多大な影響を受けているはずだ

けれども

だからといって「千利休の精神を受け継」がなければならない訳ではない

僕ならば、

“利休さんならどうするだろう?”

だなんてイチイチ考えたりしないで茶の湯をしたいな。

利休さんに縛られた茶の湯になっちゃうから。

自分の茶の湯でなくなっては、茶の湯でなくなってしまう、とすら言ってもいいんじゃないかな。

利休居士の茶の湯(とその遺業)に、自然と影響を受ける、というのは、それはそれでよい、として

僕ならば、
“利休居士と呼んだり呼ばれたりの関係にある茶人”になったつもりで、
自分の茶の湯を行じたいもの。



そもそも、利休居士だって、受け継いでほしい、なんて思っていないんじゃないかな?

利休居士は、弟子たち(いわゆる利休七哲など)に、

“私が角釜を使ったら、あなたは丸釜を使いなさい”
“ひとと違う茶の湯をしなさい”

と言っていたんじゃなかったっけ?
(まあ、この話すら後付けの利休神話かもしれないけれど)

誰かを崇め奉る、ってお茶じゃないよなあ



スナフキンも言っている

「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとうの自由は得られないんだぜ」

椎名林檎丈も言っている

「誰かがあなたを褒めそやしても私は姿勢を崩さない」

当の利休さんも言っている

「吾這宝剣祖仏共殺」

臨済も言っている

仏にあったら仏を殺せ
祖にあったら祖を殺せ



ナニカを守る立場にある方ってのは、なんだか大変だな。

いつの間にか、守らなきゃいけない、みたいになったりもするのかな。

また、いつの間にか自らに制約を課していたりもするかもしれないな。

また、
例えば、千家を守りたい人達ってのは、結構沢山いるようで。
彼らは、一般に、利休を顕彰し、利休が頂点・あるいは中心にあるような茶の湯観・茶の湯史を描きたいようだし、
そうした茶の湯史観・そういうシステムを世に広めたいのかも知れないな。
意識的にも、また無意識的にも。



特に、千家流の茶を習う人たちや、あるいは千利休の子孫である、という(ことになっている)人たちは、
ずいぶんそこに拘っているようにも見える
自らのアイデンティティの大きな要素としている、ということなのかな

それは勝手だし、
それはそれで結構なこと

家族内、流儀内ではそれもいいのかもしれない

けれど

その外(よそさま)に対しては、
自らあまりあからさまに千利休顕彰をしない方がよいだろうな、とも感じる

特に、身内が身内を褒めている、というのは、第三者から見ると、ちょっと微妙なものだ

千家家元・組織主導の茶道が圧倒的多数派を占める昨今では、
それに違和感を感じないで済むシチュエーションも多いのかもしれないし、
それに違和感を感じない人も多いのかもしれない、と思うけれど

僕は、そこに、いつも、ちょっとした違和感を感じてしまうなあ

例えば、
千家家元の掛軸を茶会で掛けた、とする
千家流の茶人にはお宝かもしれないけれど
千家流でない茶人にとっては特段ありがたくもないし
そういうことに気付かずに亭主が平然としていたら
むしろ客に失礼に当たるだろう
そういうことはきちんと弁えていたい

利休さんや千家を顕彰・レペゼンしたい人がいて、実際するひとがいる、
ってのは、
それまた、僕からすると、よそさまのすることだから、とやかく言う筋合いのものでもないんだろう

けれど
僕個人は、
よそさま、というのを常にキチンと意識していたい


茶の湯そのものをよーくみてごらん

自然体でまっすぐにみつめてみれば

利休さまさま、千家さまさま、茶人さまさま、茶の湯さまさま、では決してないのだから



この辺りの消息については、
林屋晴三さんが次のように言っている。

「時折、人を自派に引き寄せようという考えが透けて見える。
一級の茶の湯者になれる人なのだから、
常に自分を見つめ直し、より人間的な深みをつけて茶の世界に屹立(きつりつ)し、
おのずと慕われる茶人になってほしい」



(今の茶道界における利休さまさま的な動き、利休顕彰の功罪、といったことについては、また改めてまとめてみようかな)



千宗屋さんは、

茶の湯と現代美術や異分野との協業について、このようにも言っている

「創意工夫と時代精神と独自の美意識で、人と違うことをするのがお茶のオリジン(起源)だとすれば、
今それに一番近いのは現代美術の世界でしょう。
利休さんを偶像化し、それを墨守しようと「様式の茶道」になってしまった今のお茶より参考にすべきところが多い。
組み合わせたらどんな化学反応が起きるかという興味はあります。」

実に面白いところだ。



いずれにしても、

千宗屋氏は、今と次代の茶道界を担っていくであろう人物。
これからも一層ご活躍なさるだろう。

また、なにより、

千宗屋さんが実際にやっている茶の湯の

道具の取り合わせなどが伝わってくることもあるけれど

実に結構で、感服している。

こないだ、

『名碗を観る』という本の中で、

待庵の床に一休禅師の画賛を掛けていらしたのには、しびれたなー。

表具の茶色と室床の土壁の映りがとてもよかった。





茶の湯をしていると

とかく

現代とか

伝統と革新とか

なんだかんだという


そういうこととは距離をとっていたい


ただ

なんでもない茶の湯

をしたいな
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by so-kuu | 2012-08-29 21:50 | 茶人 | Comments(0)

林屋晴三さんの言葉 「茶の湯の現代」展にて 

 

茶の湯稽古の先輩にお声掛け頂き、
「茶の湯の現代―用と形―展」を観に行った。

菊池寛実記念智美術館にて、
その日は、
館長の林屋晴三さんと、武者小路千家の千宗屋さんとの対談があったのだ。

その中で、印象に残ったことがいくつかあった。




林屋さんは、手術の3週間後で、この日のために退院してきたのだという。
一見お元気そうだったが、途中20分程退席したりもした。
それだけに、どうしても言いたいことがあるんだ、という静かな気魄というようなものを感じさせられた。



林屋さんの退席中、
千宗屋さんは言っていた。

「正直、茶の湯の現代、ときいても、いまいちピンとこないんです。」

「大賞の木地水指にしても、消極的なチョイス、というような気もします。」

神代杉挽曲造木象嵌水指 灰外達夫作
http://www.musee-tomo.or.jp/file/results%20of_teautensils_2012.pdf


林屋さんが戻ると、その水指の話題になり、

林屋さん曰く、

「茶の湯の伝統を踏まえながら、自ずと今が表れている。
審査員も自然にすっと一致して、この水指を大賞に選んだね。」


(真逆の見方ともいえるけれど)千さんは頷いて聞いていた。

見方・考え方はいろいろだな。



その林屋さんと千さん。

共に認める、年齢差を超えた茶友だそうだ。

そういう茶友を持てる、ということは幸せだな。

それぞれの茶の湯観や美意識が違うのは、問題ではない。



お話をきいていると。

林屋さんは、生涯をかけて、出会い、見つめ、研究してきた、

茶の湯の歴史の中の道具たち、その美を信じているんだな。

例えば、利休好みの長次郎赤楽茶碗「無一物」など。

そんな彼は、戦後の茶道文化の中での茶の湯観・茶道具の観方の主流を造ってきた中心人物のひとりでもあるだろう。

その上で、今のこのご時世に、「茶の湯の現代」を求めている。



それは、なにも、「現代」とか「今」とか「前衛的精神」とか何とか、そんなことを頭でっかちに言っている訳ではないらしい。

「僕が、今を生きていれば、自ずと今が表れるでしょう。」

「自ずとモノが語ります。」

とも言っている。



それは、具体的には…

ぼくがみるところでは、

やはり、桃山の茶の湯の美意識を踏まえ、茶の湯文化の伝統の流れにあるもの、をよしとしているように感じた。



また、非常に打たれたのは、

「茶の湯の、茶碗をつくるなら、客に一服の茶を差し上げる、という心がこもったものでなくてはいけないんですよね。」

ということ。

その点では、

「最近、楽さんや、鈴木蔵さんでも、どうかな?と思うことがあるんです」

と率直に仰っていた。

「肌がザラザラ過ぎて茶巾も回らないのはどうか?」

とも。




「ですから、今、僕自身で茶碗を造ってみようと思ってるんです。」

「どんなものが出来るかわからない。けど、やりますよ。」

「みなさん笑うけど、僕、本気なんですよ(笑)。」


僕は楽しみにしたい。


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by so-kuu | 2012-08-29 11:13 | 茶人 | Comments(0)