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亭主とDJ (茶事とダンス・パーティー)

僕は

以前

音楽を聴いたり演奏したりしていた

一頃はクラブやパーティーでDJをしていた

その後

中古盤屋や地下室やスタジオを離れて

静寂の音や自然の姿を求めて

山登り・山歩きをして

外国や田舎を旅をして

それから

茶の湯をして遊ぶようになった


そんなこんなが僕の茶の湯をつくっている

と感じている


そして

かねがね


茶の湯の亭主とパーティーやクラブのDJとには通じるところがある

と思っている


音楽においては

そもそも楽曲はそれを作った音楽家のものだけれど、

DJが選んで、繋いで、一連のDJプレイとすることで、

一楽曲だけでは済まない、一連の音楽の流れとなって、

そのDJならではの、ひとつの世界が現れ出で、

ある一晩のパーティーが出来上がる


茶の湯においては

茶道具ひとつひとつは工人や茶人の創作だけれど、

それを亭主が取り合わせて、自らの茶事をすることによって、

茶道具単体では表現しえない別世界、その茶事の趣向や亭主の好みが現れ、

ある一期一会の茶事が現出する


それらはともに、

その日、その場だけのためのアートだ

そして

素晴らしい音楽も、最高のヴァイブスも、その時その場だけのもので、演奏が終われば何も残らない し、全く同じ演奏は二度と生まれない


茶事の道具組みも、

まずは亭主の作品であって、

次に亭主に呼ばれた客のためのものであって、

それ以外のだれのものでもない

そして、根本的には、二度とはない、一期一会のものだ


もうひとつ


DJだけではパーティーにならない

一方的にプレイしても楽しくならなくて、

客の様子をよーく感じながら、時にジワジワ、時に大胆に、自分もお客も一緒に気持ちよくなれるように、とプレイしている

聴いて、踊っている方は、一見受け身なようでいて、実は、音楽への自分のリアクションが、DJを動かし、コントロールしてもいる

DJとゲスト、プレイヤーとオーディエンスが響き合わないと、一座建立しないんだな


茶の湯も

亭主だけでは茶事は出来ない

客だけでもダメ

亭主は存分に自らの茶の湯をプレイしつつ、客を感じて、客をもてなす

客もまた、亭主の茶の湯を感じて、亭主をもてなす

主客が呼吸を合わせてゆき、いつか、主客がなくなる、そんな一瞬が、茶の湯の理想だな



さてさて


ふと思うところあって

ちょっとメモる







追記:



音楽では

DJがプレイする音源は、多くの場合、自身が作った音源ではなく、他所の誰かがクリエイトした楽曲を用いる

かつて

“編集することは創造することだ”とかなんとか、そんな風に言って憚らないDJが幅を利かせた頃があって

その時、僕はちょっとした違和感を感じていていた

確かに、ある楽曲も、どんな風に切り取るか、選び、使うかによって、全く違った風に響く、それは事実だ

けれど

僕は、それはそれとして、元の音源を無から創造したひとへのリスペクトを忘れたくないな、と感じたのだった


茶の湯においても

茶道史初期の茶道具は、中国からの、あるいは朝鮮からの、南蛮の島々からの、輸入品の転用から始まった

一方、そうしたものを、単なる舶来趣味を超えて、独自の美意識に基づいて、選び、取り上げ、見立て、使って、楽しんだ、茶の湯創成期の茶人の眼力や美意識は、たいしたもんだ、と思わされる


そうした数々の茶道具を駆使して、どんな風に取り合わせて、どんな茶の湯を表現するか、を競い合うようになる

茶人同士の交遊の中で、ある日、傑出した道具組をして、目の覚めるような趣向で、これまで誰もなし得なかったような茶の湯をした茶人は、茶人としての評判をとった


そのうち、茶人たちは、国焼きの器を用い始め、

また、竹の茶杓や好み道具など、自らの美意識を具現化する茶道具を作ることを始めた


さらに時代が下ると、いわゆる道具組みにも、定型が出来、茶の湯の定型化が始まる

小堀遠州や松平不昧、千家をはじめとした流儀の宗匠など、茶道具の価値を定義づける、いわゆる権威も生まれてくる

近代には、いわゆる数寄者の茶の湯の流れの中で茶道具の価値が再定義され、

戦後には、千家を中心としたいわゆる流儀の茶、稽古茶道が隆盛するよとなる

茶の湯も、さんざん消費されて、定型化の極み、というか、形骸化というか

面白くもない茶の湯がダラダラと垂れ流され、また消費されているかもしれない


けれども

僕は、ある茶道具に触れる時、

そのモノ、それ自体をゼロから生み出したひと、ゼロから生まれ出てきたものソノモノを、まずはちゃんと見つめたい、と思っている


昨今、茶道具を茶道具としてしか見ない、ということに、ちょっとウンザリする時がある

400年この方誰かさん達がご都合で吹聴してきたことを、ただ真に受けて、いわば色眼鏡をかけてモノをみている、人の言葉の受け売りを、自分の感想だと思い込んでいる、というような風潮が、いや、実際にそんなひとが、昨今の茶の湯の世界には、多々見受けられるように感じるから


そんな中で、

僕は、どうしようか?

僕なら、

まず、ものソノモノをみつめたい

そしてゼロから作ったひとへのリスペクトを忘れたくない

それから、特に茶の湯創成期の真にクリエイティヴな茶人たちの功績を見つめたい

そうした、茶の湯ヒストリーの上の宝ものを知って、ちゃんと味わって、

その上で、僕は、今、僕の茶の湯をしたい

先達を呼んでも、恥ずかしくない、あわよくば、先達をアッと言わせる、あるいはせめてニヤリとさせる位の

そんな茶の湯がしたいものだ




(まとまらないけれど、メモっておく)













by so-kuu | 2014-03-19 23:35 | 茶人 | Comments(0)
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