会記と道具組は誰のものか? (茶人の心得・茶の湯の常識)

会記というものに関する先生のお話は、

亭主の慎ましさについて

また、

客の精進について

のことだけれど


会記を安易に出さない、貰わない、

ということには、また別の要素もあろうと思う


すなわち

思うに


茶事の道具組みはそれ自体亭主が作りあげるアートなのだ


僕はかねてから

茶の湯の亭主とパーティーやクラブのDJとには通じるところがある

と思っていて


音楽においては

そもそも楽曲はそれを作った音楽家のものだけれど、

DJが選んで、繋いで、一連のDJプレイとすることで、

一楽曲だけでは済まない、一連の音楽の流れとなって、

そのDJならではの、ひとつの世界が現れ出で、

ある一晩のパーティーが出来上がる


茶の湯においては

茶道具ひとつひとつは工人や茶人の創作だけれど、

それを亭主が取り合わせて、自らの茶事をすることによって、

茶道具単体では表現しえない別世界、その茶事の趣向や亭主の好みが現れ、

ある一期一会の茶事が現出する


それらはともに、

その日、その場だけのためのアートだ


素晴らしい音楽もその場だけのもので、演奏が終われば何も残らない し全く同じ演奏は二度とない


茶事の道具組みも、

まずは亭主の作品であって、

次に亭主に呼ばれた客のためのものであって、

それ以外のだれのものでもない

そして、根本的には一期一会のものだ


してみると

少なくとも、その日の茶の湯に亭主から客として呼ばれていない、不特定多数の好事家のためのものではないはず


***

そういえば、

ある時、ある人の茶事に呼ばれた後、

別の方から、

「どんなお道具だった?」と訊かれたことがあった

僕は

「それは、ご本人に訊いてください」と答えた

けれども

「ケチなこと言わないで、ご亭主には内緒にするから教えて」とおっしゃる

「ご亭主は同じ道具組で次にあなたを呼ぶかもしれませんし、僕からは言えません」と答えた

けれどその方は腑に落ちない様子

(そういう方は、この辺りの消息についてあまり考えたことがないのかもしれない)

***


ある茶人の茶の湯、その茶人ならではのお道具組みは、一種の知的財産みたいなもの


と言ってもいいのではないか


客が亭主を尊重するのならば、他所で吹聴すべきものではないはず、と思う


さてさて

ここで話を会記に戻すと


会記は、亭主の控えであって、客に渡さないのが基本だと思う

客も、むやみに会記を求めるものではない


会記があっても、なくても

ある茶事にお呼ばれして、

そのご亭主のお心入れの茶の湯、

そのご亭主のご苦心の道具組みを、

勝手に画像をパチパチ撮る、とか

後日ペラペラと喋る、とか

ブログにアップして公開する、とか

そういうことは、僕は慎みたい、と感じている


茶事の道具組や内容は口外しない、というのが、亭主に対する敬意であり、茶人としての慎みだろう

それが、茶人の常識、であってほしい、と思う


翻って、自省すると

やっぱり、会記は自分の控えとして客には出さない、というのをこれからも自分の基本にしたい

会記を出すのは、特別な事情がある場合だけに

客であっても、会記をもらわず、記憶に残して、家に帰り、自分でメモしよう


それが、例えば『松屋会記』にみられるような、自会記、他会記、というものなんだろう

古えの茶人は、そうやって、すこしずつ名物に触れ、目を磨き、茶の湯を楽しんだんだろう


道具の話は、会記なしで、お話ですればいいし、そのほうが茶事が楽しくなるし

亭主も客もそうして楽しみながら学ぶことも出来るはずだよな




(ちょっとまとまらないけれど、後々の自分のためのメモとして書いておく)










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by so-kuu | 2014-03-19 22:29 | 茶人 | Comments(0)
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