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茶の湯凡人の目 (いわゆる「見立て」の罠)

自分で自分の茶の湯をする

ということを書いてきた

けれど、ひとつ、自戒をこめて、書き留めておこう・・・


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武野紹鴎の眼、茶の湯名人の目明き、ということについて書いた

さて

「こんな物はお茶器として使えないとか、お茶器っていうのはこんなものでなければならないとか、形式ばった、むつかしいことをおっしゃる。」

というような向きもある一方で、
「見立て」がことのほか大好きで、どんどんなさる方も、これまた大勢さんいらっしゃる

「見立て」

なんて言葉が茶の湯の世界にあるもんだから、
俺も、私も、と、いろんな人が「見立て」をする

「紹鴎が・・・」
「利休さまが、なんと・・・」
などという神話
を聞くについて、

“ワタクシも利休の精神を現代に受け継いで・・・”
などといっては、やたらと見立てたがる

凡人にも、目玉はくっ付いていて、
凡人が凡人の目で見出し、凡人なりに見立てる

その結果として、
凡なる見立て道具、
凡なる取り合わせ
が多数生まれ、
そして消え去ってったんだろうな


「見立て」か?既成の茶道具か?
は僕にはどっちでもいい
保守的か?現代的か?
だってどっちでもいい
(どっち、なんて単純に言えるものじゃないんだし)



名人か?凡人か?
だって、僕にはどうでもいいし
その違いは紙一重とも言えるかもしれない

「名人」
というのを盲信・崇拝することもなければ、
「名人」は自分たちとはまったく別のスーパーな存在なんだろう、と考える必要もない
(そういうひとは茶の湯もてんで分からないかもしれない)
月を指す、その指をみてちゃダメなんであって、月の方をみないと

見えない美、なんて言葉も、一種のまやかしだろうとも思う


けれど
ハッキリわかるのは、

つまらない見立ては、つまらない

ということ

単純な話だ


見立て、をするなら

面白いか?そうでもないか?
あえて見立てる必要があるほどのものか?
やたらと「見立て」をしたがる、奇を衒いたがる、うぬぼれや功名心ではないのか?
その見立てはその日のお客と共に楽しむことが出来るものか?
その見立てが取り合わせ全体を邪魔していないか?
その一会の茶の湯全体が面白くなっているか?

といったことを、きっちりとシビアにジャッジ出来る茶人でありたい



要は

凡人は、凡人なりの茶の湯しか出来ない

面白い人だからこそ、面白い茶の湯をするんだな



そして

面白い茶の湯をなす人

それを名人と言うんだな



当たり前の話だ


自分と自分茶の湯を、しっかり見つめたいもの
by so-kuu | 2013-05-20 12:50 | 茶人 | Comments(0)
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