「流派という、すでに定型化したもの…それは茶の湯の堕落」 (流儀の茶・個人の茶、芸事の茶・芸術の茶)

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・・・さらにまた、茶席でも茶庭でも、流派というものを重視していいか悪いかの問題もある。私は率直にいって、感心できないといいたいのである。なぜならば、流派というものは、すでに定型化したものであって、高い見地から見れば、それは茶の湯の堕落であり、芸術作品としての茶庭ではなくなるからである。

 このことが一番よく理解できるとおもうのは、利休や小庵や、宗旦や有楽や、織部や、遠州といった古い時代の茶人たちの作った茶席や、または茶庭を見ると、各人の茶に対するこのみ、また個性が充分にでているし、いずれも各作者の創作でないものはないからである。これらの各人のこのみや個性や時代感覚が充分でてこそ茶席であって、定型化したもののなかからは、正しい意味における茶席や茶庭は発見されないのが当然である。したがって定型化されたもののなかから正しい茶庭は生まれてこないことが明らかである。・・・

『茶室と茶庭 見方・作り方』(重森三玲・誠文堂新光社・昭和41年)

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チラと読んで、お、と思った。
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by so-kuu | 2013-05-17 22:51 | 茶人 | Comments(0)
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