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織田有楽は千利休の弟子ではない、と思うけれど・・・

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織田有楽は千利休の弟子、と書いてあることがある
「有楽を利休七哲に数える説もあり」とか、そういう話もある

けれども

僕は

織田有楽は千利休の弟子ではないだろう

と考えている


***

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例えば、茶杓「玉ぶりぶり」を観てみると

下がり節で、滑らかな枉げの有楽茶杓は、艶な感じ
中節ではなく、下がり節、ってところがいいな
古風の茶杓、ということだろう

中節の茶杓、は千利休の創始、と広く言われているけれど
実際には、北向道陳や武野紹鴎門下生の何人かは早い段階で中節茶杓を作っていたようだ

にも関わらず、「中節茶杓は利休が創始」と言いきってしまう、強硬な物言いはいろいろな所で見受けられる

それは、
織田有楽は千利休の弟子であってほしい人たちの言い分じゃあないかな?

利休さまさま信奉者、
とにかく千利休を持ち上げたい人、
そういう立場からものを観たい人達、
千家顕彰推進組織、
そういった人たちの、
ちょっと出過ぎてしまった言動だと思うなあ

だって、
同時期に中節茶杓を作ったひとがいることが確認されているのに、
なぜ、利休一人の創始、と言い切れるのか?
また、
北向道陳作の中節茶杓があるのに、
なぜ、年上であり師匠である北向き道陳が先に作った、と言わず、
年下で教えを受けた弟子である利休の創始、と言いきってしまうのだろうか?
不自然だと思う

いわゆる利休神話を遠目で見れば、

何でもかんでも利休の手柄、というのは、いかにも馬鹿馬鹿しい

もちろん、
事は茶杓の例に限ったことではなくて

利休と同時代の茶人がみんながみんな利休の弟子ではない、
というのでは当たり前のことで、
数寄者の流れというのは、利休に至る系統以外にも、色々あって当然で

そういう風にちょっと引きでみると、
織田有楽の残したものや言葉などをみつめてみると、

織田有楽は、利休一派とは別の流れの茶人、と言えるのではないか?

と個人的には考えている

尾張にいる時から茶の湯をしていただろうし
奈良の松屋など、利休台頭以前からの数寄者とも懇意だったようだし、

信長没後、秀吉に仕える形となったからと言って、
利休や利休七哲たちと茶の湯付き合いがあったからといって、
秀吉の命で、利休から台子の相伝を受けたからと言って、
即ちイコール“有楽は利休の弟子だ”ということにはならない、と思う

有楽は、当時一世を風靡していた利休の茶の湯を、わりと冷めた眼で見ていただろう、と僕は考えている

茶杓「玉ぶりぶり」をみても、そういうことを感じさせられる
流行りの宗易形茶杓でない茶杓を、あえて有楽は作ったのかもしれないし
あるいは、利休流行りなど相手にせず、ただ自分の茶の湯をしていたのかもしれない

***


実際どうなんだろう?


茶の湯の逸話には利休至上主義に基づく神話が多くてげんなりするときがある

だから、有楽が利休の弟子かどうか、について、気になってしまうんだと思う

どの資料がどのくらい信憑性があるのか?とか難しいところもあろうけれど

ご都合主義を排除した実証的な茶の湯史研究、スッキリとした研究成果が求められている、と思うな
by so-kuu | 2013-02-16 22:36 | 茶人 | Comments(0)
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