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涼一味の茶 根津美術館(「応挙の藤花図と近世の屏風」展)

 
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根津美術館に行った。

応挙の藤花図よりも、
展示室6の“涼一味の茶”がお目当て。

夏はお茶の季節じゃない、という向きもあるけれど、
僕は、夏の茶、好きだな。

隣の展示室5の“南蛮・島物の茶道具”もよかった(別ページにでも)





・和歌短冊

「かきほより こなたに枝を引とるや 人つまならぬ あさかほの花 正徹」

“垣穂より 此方に枝を引き取るや 人妻ならぬ 朝顔の花”
でいいのかな
だとすると、ちょと色っぽい?

正徹は若くして僧となったとかで
東山殿足利義政に和歌を講じ、心敬などの師だそうだ


・籠煙草入

籐で編み方に変化つけてある
いわゆる辻堂形


・山水図 惟馨周徳筆 室町時代

夏の茶に水墨の山水図、よろしいね


・唐銅風炉 青銅塗漆 江戸時代

正面の切欠が小さめ・浅めなのが夏の茶の湯にいいな
鐶付は象の鼻のようだけど、龍と云うんだろうな

・青磁鉄鉢形水指

青磁の水指は、前回の「雨中の茶の湯」でも
但し、今回のは鉄鉢形
禅僧が托鉢で使うあの器
丸みがあるので、その前に置かれた、角張った感紹鴎風の棗とコントラストが出て、面白いな (画像にメモ)
黒塗蓋の撮みの形が面白い(普通の半円でなく、3/4くらいの円)


◎黒漆大棗

僕は紹鴎好みの角ばった棗が好きだ

(僕は紹鴎さんと紹鴎さんの好みが好きで
利休さんも結構だけれど、紹鴎さんをもっともっと顕彰すべきでは?と感じることが多い)

大棗だというのもあるけれど
ふくよかで大らか


△三島来賓茶碗

“夏の茶ということで、もっと平たいものを取り合わせました”との解説あり
薄過ぎ!
僕なら茶碗としては使わない
普通に皿として使えばいい

モノとしては素敵な三島


◎茶杓 共筒 桑山左近作

=桑山宗仙
=千道安の弟子、片桐石州の師

実にいいなあ

順樋、単樋
所々に染みの景色あり
櫂先は自然な丸曲げ
露は自然な楕円、軽く兜巾がたった連弁状、やや左下がり
中節の樋稜はおとなしい
腰裏はわずかにあがり、ほぼ真っ直ぐ
切止はかすかに細められ、
直角切りというか、ほんのちょっと斜めの一刀切か
断面は、(矩形でなく)かまぼこ形に見える
筒は草
〆印は墨でトの字形
千家風と石州風の間にあると言えるかも

ごく自然で力みのない作行き
気品を感じさせる

とにかく、
なんだかスーッとしてきもちのいい茶杓だと感じた


◎芋頭水指

仁清、上手ー!
丸ん、としてキレイな形
いわゆる仁清信楽
カリっと明るい焼きあがりがまたよし
黒塗蓋は凹んでる
水指の球形に合わせて膨らます(先日「茶の湯の現代」展でみた)より面白いかも


△瓢形茶入 銘 空也 瀬戸 新兵衛作

釉は黒っぽくて
柴垣文のヘラが入れてあるところが正面だろう
ちょっと左に傾いてる
グズッとした感じだな
いわゆるひょうげた茶の湯がやりたいひとには面白いのかも

銘は、ひょうたんを叩きながら念仏を唱えたとされる空也上人から
箱書は小堀遠州による隷書体


△黒楽茶碗 伝山田宗偏作

山田宗偏は、正しくは行にんべんに扁=徧)
宗旦四天王のひとり

「伝~」というのは、
「~ではないとみておいた方がよい」
と僕は読むようにしている

モノを自分の眼で観てみると、
長次郎「鉢開」をみたことのある人の作かも
口づくりがかなり薄いので、三代道入(のんこう)の影響化の作かも

見込みには茶溜り
僕にとっては、黒楽の茶溜りはない方がよいもの


△竹一重切花入 小堀遠州作

平たくした竹で作った花入
わざとらしくて、好きでない


○瑠璃桔梗形茶器 肥前

桔梗の花びらの形の筒型の陶器
ピタリとキレイな象牙の蓋をつけて替茶器に
さやわかで、ナイスな見立てだと思う


○染付草文茶器 肥前
もすっきりとしたナリ、青絵と大きな余白のやや濁った青白の感じがステキ





以上、備忘録として
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by so-kuu | 2012-08-31 06:41 | 茶道具 | Comments(0)

流儀の茶・個人の茶 (林屋晴三さんと千宗屋さん対談にて)

(林屋晴三さんと千宗屋さん対談の対談より 記憶を辿って書き留めておくことに)


林屋さん:

茶道具の現代ということを言えば

今、茶人が驚くほど茶道具をみる眼がないですね


ここにいる千宗屋さんは大したものだが、

家元連中でも、茶道具がわからないのが多いんです

自分の流儀の道具のことは多少詳しいですよ、

でも、茶道具そのものを観る眼がないんですな


今日お集まりのみなさんはお茶をなさるんでしょうけれど、

いかがでしょうか?


これはね、

家元の方にも、よく考えてもらいたい、と宗屋さんにもいいたいんです

家元が流儀の茶を教える立場にあるのは結構ですし、

弟子の方も初めはきちんと流儀の茶の湯を稽古して身につけるべきです

けれども、それがある程度までいったら、

家元の方が茶人個人を解放してあげないと

個人個人の茶の湯というものを認めてあげないと

本当の茶の湯者というのは生まれてこないと思うんです


やはり

ひとりの茶人に茶の湯者としての自覚というものがなければ、本当の茶の湯というものは生まれてこない

そう思うんです

***



さて

如何?
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by so-kuu | 2012-08-29 22:20 | 茶人 | Comments(0)

利休と千家流と現代の茶人たち (「茶の湯の現代」展にて)

茶の湯稽古の先輩にお声掛け頂き、
「茶の湯の現代―用と形―展」を観に行った。

菊池寛実記念智美術館にて、
その日は、
館長の林屋晴三さんと、武者小路千家の千宗屋さんとの対談があったのだ。

その中で、印象に残ったことがいくつかあって、いろいろ考えさせられた。



司会者の問い

「千さんご自身の茶の湯において、現代の茶道具を使う余地はありますか?」

に対して曰く、

「現代の茶道具とはどういうものを指してのことでしょうか?」


司会者「現代に作られた道具、という意味で。」


「それは、もちろん、あります。」

「私は、古い茶道具が好きなので」

「そうしたものと取り合う道具があれば、現代のものでも使います。」

「ただ、現代の茶道具を使おう、とか、茶の湯の現代とかいうことを考えてのことではなくて。」

(これはとても共感した、現代の、とか考えないな、僕も)



会場からの質問

「現代の道具を使うことが千利休の精神を現代に受け継ぐことにもなるかと思いますが、

千さんのその辺についてのお考えを聞かせてください。」

(質問の意味するところを量りかねているように見えたが)

「茶の湯と現代の生活スタイル、ということは、常に考えています」

「利休さんなら、今どんな茶の湯をするだろうか?ということはいつも考えています」

と応えていた。

現代の道具を使うことが千利休の精神を現代に受け継ぐことにもなるか、という質問者の問い(というか質問者の意見?)には直接回答していなかった。




お話をきいていた感じたのは・・・

まず、

千宗屋さんに対する世間の目や評価に対して、本人がやや当惑しているようだ、ということ

特に、

茶道をカジュアルに、だとか、モダン茶の湯、だとかいう動きがみられる中で、

千宗屋がさもその牽引役だ、という風にみられることに、いたく迷惑している様子

(そりゃそうだろうな、それはあまりに浅はかな誤解だ)

現代茶の湯革新の旗手と見られがちな千さんは、自身を

「私は、ある意味では、むしろ保守的だとすら思っています」

と言っている。



現代の道具を使うことが千利休の精神を受け継ぐことにもなるか?

については、

僕は、必ずしもそうではない、と考える。


現代の茶道具、すなわち今モノを取り入れれば、利休居士のなしたような茶の湯の革新や茶の湯文化の大成というようなことになるか?

と問えば、それは全くイコールではない。

見立てや好みをするのは勝手だけれど。
つまらない見立てや好みは淘汰されるだけのこと。


現代のガラクタを取り入れた茶の湯は、
現代の茶の湯、
だけど、
ガラクタの茶の湯

つまらない見立ての現代の茶の湯は、
現代の茶の湯、
だけど、
つまらない茶の湯

ガラクタか、お宝か、
面白いか、つまらないか、
はひとそれぞれだから、
各々が好きな茶の湯をやればいいのだけれど、

現代ということに囚われた時点で、
現代ということに縛られた茶の湯だ

それでは、茶の湯の革新どころではない。

古いか?新しいか?は、実は問題じゃないんだろうな。

むしろ「和漢の境をまぎらす」ように「新・古をサラリと取り合わせる」のが茶の湯巧者だと思うなあ。



千さんが、

「現代の茶道具とはどういうものを指してのことでしょうか?」
と問い直したのは、
「自分の考える道具組の中に取り合うならば、現代に造られたものも使いますよ」
と応じたのは、
そういうところではないかな。

大名物であれ、いわゆる現代作家のものであれ、
伝統的な茶道具であれ、いわゆる見立ての道具であれ、
確かな審美眼をもって吟味しているかどうか?
ということだろう

自分の審美眼がどの程度のものか?
について
ひとはなかなか上手にジャッジできない

というものひとつの問題なんだろうな




ところで、

「千利休の精神を受け継ぐ」ことに、僕個人は、そもそも全く興味がない。

僕は、その必要も感じないし、そうしたいとも思わないし、ましてやその義務など背負っていない。



たしかに

茶の湯をするひとにとって

千利休というひとのやったこと、残したものは

大きな影響力を持っているだろう

かく言う僕だって、もちろん、“千利休の茶の湯”に多大な影響を受けているはずだ

けれども

だからといって「千利休の精神を受け継」がなければならない訳ではない

僕ならば、

“利休さんならどうするだろう?”

だなんてイチイチ考えたりしないで茶の湯をしたいな。

利休さんに縛られた茶の湯になっちゃうから。

自分の茶の湯でなくなっては、茶の湯でなくなってしまう、とすら言ってもいいんじゃないかな。

利休居士の茶の湯(とその遺業)に、自然と影響を受ける、というのは、それはそれでよい、として

僕ならば、
“利休居士と呼んだり呼ばれたりの関係にある茶人”になったつもりで、
自分の茶の湯を行じたいもの。



そもそも、利休居士だって、受け継いでほしい、なんて思っていないんじゃないかな?

利休居士は、弟子たち(いわゆる利休七哲など)に、

“私が角釜を使ったら、あなたは丸釜を使いなさい”
“ひとと違う茶の湯をしなさい”

と言っていたんじゃなかったっけ?
(まあ、この話すら後付けの利休神話かもしれないけれど)

誰かを崇め奉る、ってお茶じゃないよなあ



スナフキンも言っている

「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとうの自由は得られないんだぜ」

椎名林檎丈も言っている

「誰かがあなたを褒めそやしても私は姿勢を崩さない」

当の利休さんも言っている

「吾這宝剣祖仏共殺」

臨済も言っている

仏にあったら仏を殺せ
祖にあったら祖を殺せ



ナニカを守る立場にある方ってのは、なんだか大変だな。

いつの間にか、守らなきゃいけない、みたいになったりもするのかな。

また、いつの間にか自らに制約を課していたりもするかもしれないな。

また、
例えば、千家を守りたい人達ってのは、結構沢山いるようで。
彼らは、一般に、利休を顕彰し、利休が頂点・あるいは中心にあるような茶の湯観・茶の湯史を描きたいようだし、
そうした茶の湯史観・そういうシステムを世に広めたいのかも知れないな。
意識的にも、また無意識的にも。



特に、千家流の茶を習う人たちや、あるいは千利休の子孫である、という(ことになっている)人たちは、
ずいぶんそこに拘っているようにも見える
自らのアイデンティティの大きな要素としている、ということなのかな

それは勝手だし、
それはそれで結構なこと

家族内、流儀内ではそれもいいのかもしれない

けれど

その外(よそさま)に対しては、
自らあまりあからさまに千利休顕彰をしない方がよいだろうな、とも感じる

特に、身内が身内を褒めている、というのは、第三者から見ると、ちょっと微妙なものだ

千家家元・組織主導の茶道が圧倒的多数派を占める昨今では、
それに違和感を感じないで済むシチュエーションも多いのかもしれないし、
それに違和感を感じない人も多いのかもしれない、と思うけれど

僕は、そこに、いつも、ちょっとした違和感を感じてしまうなあ

例えば、
千家家元の掛軸を茶会で掛けた、とする
千家流の茶人にはお宝かもしれないけれど
千家流でない茶人にとっては特段ありがたくもないし
そういうことに気付かずに亭主が平然としていたら
むしろ客に失礼に当たるだろう
そういうことはきちんと弁えていたい

利休さんや千家を顕彰・レペゼンしたい人がいて、実際するひとがいる、
ってのは、
それまた、僕からすると、よそさまのすることだから、とやかく言う筋合いのものでもないんだろう

けれど
僕個人は、
よそさま、というのを常にキチンと意識していたい


茶の湯そのものをよーくみてごらん

自然体でまっすぐにみつめてみれば

利休さまさま、千家さまさま、茶人さまさま、茶の湯さまさま、では決してないのだから



この辺りの消息については、
林屋晴三さんが次のように言っている。

「時折、人を自派に引き寄せようという考えが透けて見える。
一級の茶の湯者になれる人なのだから、
常に自分を見つめ直し、より人間的な深みをつけて茶の世界に屹立(きつりつ)し、
おのずと慕われる茶人になってほしい」



(今の茶道界における利休さまさま的な動き、利休顕彰の功罪、といったことについては、また改めてまとめてみようかな)



千宗屋さんは、

茶の湯と現代美術や異分野との協業について、このようにも言っている

「創意工夫と時代精神と独自の美意識で、人と違うことをするのがお茶のオリジン(起源)だとすれば、
今それに一番近いのは現代美術の世界でしょう。
利休さんを偶像化し、それを墨守しようと「様式の茶道」になってしまった今のお茶より参考にすべきところが多い。
組み合わせたらどんな化学反応が起きるかという興味はあります。」

実に面白いところだ。



いずれにしても、

千宗屋氏は、今と次代の茶道界を担っていくであろう人物。
これからも一層ご活躍なさるだろう。

また、なにより、

千宗屋さんが実際にやっている茶の湯の

道具の取り合わせなどが伝わってくることもあるけれど

実に結構で、感服している。

こないだ、

『名碗を観る』という本の中で、

待庵の床に一休禅師の画賛を掛けていらしたのには、しびれたなー。

表具の茶色と室床の土壁の映りがとてもよかった。





茶の湯をしていると

とかく

現代とか

伝統と革新とか

なんだかんだという


そういうこととは距離をとっていたい


ただ

なんでもない茶の湯

をしたいな
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by so-kuu | 2012-08-29 21:50 | 茶人 | Comments(0)

林屋晴三さんの言葉 「茶の湯の現代」展にて 

 

茶の湯稽古の先輩にお声掛け頂き、
「茶の湯の現代―用と形―展」を観に行った。

菊池寛実記念智美術館にて、
その日は、
館長の林屋晴三さんと、武者小路千家の千宗屋さんとの対談があったのだ。

その中で、印象に残ったことがいくつかあった。




林屋さんは、手術の3週間後で、この日のために退院してきたのだという。
一見お元気そうだったが、途中20分程退席したりもした。
それだけに、どうしても言いたいことがあるんだ、という静かな気魄というようなものを感じさせられた。



林屋さんの退席中、
千宗屋さんは言っていた。

「正直、茶の湯の現代、ときいても、いまいちピンとこないんです。」

「大賞の木地水指にしても、消極的なチョイス、というような気もします。」

神代杉挽曲造木象嵌水指 灰外達夫作
http://www.musee-tomo.or.jp/file/results%20of_teautensils_2012.pdf


林屋さんが戻ると、その水指の話題になり、

林屋さん曰く、

「茶の湯の伝統を踏まえながら、自ずと今が表れている。
審査員も自然にすっと一致して、この水指を大賞に選んだね。」


(真逆の見方ともいえるけれど)千さんは頷いて聞いていた。

見方・考え方はいろいろだな。



その林屋さんと千さん。

共に認める、年齢差を超えた茶友だそうだ。

そういう茶友を持てる、ということは幸せだな。

それぞれの茶の湯観や美意識が違うのは、問題ではない。



お話をきいていると。

林屋さんは、生涯をかけて、出会い、見つめ、研究してきた、

茶の湯の歴史の中の道具たち、その美を信じているんだな。

例えば、利休好みの長次郎赤楽茶碗「無一物」など。

そんな彼は、戦後の茶道文化の中での茶の湯観・茶道具の観方の主流を造ってきた中心人物のひとりでもあるだろう。

その上で、今のこのご時世に、「茶の湯の現代」を求めている。



それは、なにも、「現代」とか「今」とか「前衛的精神」とか何とか、そんなことを頭でっかちに言っている訳ではないらしい。

「僕が、今を生きていれば、自ずと今が表れるでしょう。」

「自ずとモノが語ります。」

とも言っている。



それは、具体的には…

ぼくがみるところでは、

やはり、桃山の茶の湯の美意識を踏まえ、茶の湯文化の伝統の流れにあるもの、をよしとしているように感じた。



また、非常に打たれたのは、

「茶の湯の、茶碗をつくるなら、客に一服の茶を差し上げる、という心がこもったものでなくてはいけないんですよね。」

ということ。

その点では、

「最近、楽さんや、鈴木蔵さんでも、どうかな?と思うことがあるんです」

と率直に仰っていた。

「肌がザラザラ過ぎて茶巾も回らないのはどうか?」

とも。




「ですから、今、僕自身で茶碗を造ってみようと思ってるんです。」

「どんなものが出来るかわからない。けど、やりますよ。」

「みなさん笑うけど、僕、本気なんですよ(笑)。」


僕は楽しみにしたい。


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by so-kuu | 2012-08-29 11:13 | 茶人 | Comments(0)

湿し灰に番茶をかける理由 (阿部宗正先生からのひと言)

 
***

湿し灰を造るのは、夏の暑い盛りに行います。
京都でもこの太陽の光が強い立秋に向かっての土用にします。

灰を短時間に素早く乾燥させる効果があるからです。

一年間使った炉の灰を、
桶などに移し水を入れて浮いてくるアクと上澄みの不純物を取り除いたあと、
直射日光に当てて乾燥させ、
細かく砕いた灰に番茶をたっぷりかけます。
濃い目に煮立てた番茶を使います。

なぜ番茶をかけるかといいますと、第一には灰に色付けをするためです。
毎年手をかけた灰は独特の落ち着いた色をして味わい深いものです。
また、炉の灰が腐食する(かびる)のも防ぐわけです。

***



本当かな?

番茶が灰の腐食・カビを防ぐ、というところがイマイチ腑に落ちない気も。

また、

灰に色付けしているのは、本当に茶汁の成分だろうか?実は、別の要素なのでは?という気も。

大人の自由研究を続けよう。
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by so-kuu | 2012-08-28 07:10 | 湯相・火相(炭・灰) | Comments(2)

炉の灰をつくる (「灰作りにこだわる真の茶人」より)

***

■炉の灰を作る

炉の灰作りは夏に行うのが通常です。

最初の炉の灰は、風炉の灰作りに準じて作られますが、
すでに使いこんだ炉の灰は、立秋前の土用、七月下旬から八月上旬の十八日くらいの間に作られ、
風炉の灰とは異なり、炉の灰、または湿し灰として作ります。

新しい灰と古い灰を分けて上敷などの上に広げます。
それから番茶ないしは丁子(フトモモ科の常緑高木)の煮汁を如雨露で注ぎ、天日にさらします。

さらした灰を乾かしながら、全体に湿り気がいきわたるように手でよくもみ、これを何回か繰り返したのち、
ほどよい湿り気を残したまま、粗い目の篩を通してふるい、
出来上がった灰を壺などに収めます。

壺などは密封して直射日光のあたらない場所に蓄えておき、
開炉の時期になって初めて炉に入れるのです。

しかし一年や二年の手入れでは、なかなか上質の湿し灰は出来ません。
この手間のかかる地味な灰作りを年々繰り返しているうちに、良い風炉の灰や炉の湿し灰が出来るわけです。
少なくとも30年以上、繰り返し手入れをした灰でないと「極上の灰」とはいえないといわれています。

そんなことから、ある老巧な茶人が火事に際して、貯蔵していた灰を一番先に持って避難したという話があるほどです。
この話からも古今の茶人たちがいかに良質な灰作りにこだわってきたかが窺われます。

「灰作りにこだわる真の茶人」より、裏千家・業躰、阿部宗正氏の言葉 (『灰形と灰をつくる』4頁)

***


いわゆる、一般的な炉灰の手入れ、湿し灰の作り方手順。

・番茶をかけるかどうか?
・水を大量にかけるかどうか?
・ふるった粒状灰にしてから保管か?壁土のようなねっとりとした塊の状態で保管(自然乾燥)するか?

など、灰作り・灰の手入れには、いろいろ考え方もあろう。
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by so-kuu | 2012-08-28 07:05 | 湯相・火相(炭・灰) | Comments(0)

灰そのものについて何の関心も持たずにいる方が、上手な灰形を作れるようになるはずもありません


***

茶人ほど灰に対して深い関心と愛着を寄せている者はありません。

灰には風炉に入れる生灰、炉に入れる湿し灰、やつれ風炉に入れる藁灰などがあります。風炉の灰は木の灰で作ります。

最初は木灰を細かい篩を通してふるい、器に入れた灰に水を流し込みます。
やがて浮き上がってくる不純物とともに上水を捨て、天日で灰を乾燥させます。
乾いた灰を細かい網目の絹篩を通してふるいます。

風炉の灰をよく使いこみながら、年々手入れをして、10年、20年と蓄えていくと、色調をおびた、本当に良質の灰が出来上がります。
これはお金に値するものではないといわれるほど貴重なものです。

美しい灰形を作るには、良い灰を使うことが重要な要素です。
したがって良質な灰の値打ちを知ってこそ、風炉の灰形も上手に作れるようになるのであり、
灰そのものについて何の関心も持たずにいる方が、上手な灰形を作れるようになるはずもありません

***




「灰作りにこだわる真の茶人」より、裏千家・業躰、阿部宗正氏の言葉 (『灰形と灰をつくる』4頁)




灰そのものについて何の関心も持たずにいる方が、上手な灰形を作れるようになるはずもありません

激しく同意!
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by so-kuu | 2012-08-28 07:00 | 湯相・火相(炭・灰) | Comments(0)

灰の種類 ~『灰形と灰の作り方[表千家]』より

***

灰の種類

茶の湯で使う灰には、炉の灰(濡れ灰)、風炉の灰、蒔灰、香炉の灰、火入の灰、火鉢や手焙りの灰などがある。

灰の役割として、第一に炭火が消えないように保つことがあげられる。
灰には空気が含まれており、炭火に徐々に空気を供給するからである。
また、灰の量を加減することで炭の火力を調節することが出来る。
もちろん断熱材としての役割や、灰形が醸し出す美しさも忘れてはならない。

灰の種類によって湿り加減や粒子の大きさはさまざまであるが、基本的には同じ灰である。
ひと昔前まで、日常の暮らしの中で使われていた灰から手間暇をかけて美しい黄褐色の灰を作り、それを使う目的にかなうように仕上げるのである。
灰作りや灰形をつくることは点前とは異なり裏の仕事であるが、作り方を学ぶにつれ、茶の湯の奥深さに触れることが出来る。

(『灰形と灰の作り方[表千家]』より)

***


灰が空気を含む、ということには、2つの意味合いがあると思う。

1.その空気が徐々に炭の燃焼に使われる
2.灰形によって灰の中に閉じ込められた空気(デッド・エア)が断熱材の役割を果たし、熱を逃さないことで、火袋内の温度が効率的に上昇し、炭の燃焼を助ける

すると

灰の量も大切。
灰形も大切。

季節や道具組など、火相と湯相をめぐる諸条件に応じて、
灰の量・燃えやすさなどを微調整することも出来るはず。
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by so-kuu | 2012-08-28 06:55 | 湯相・火相(炭・灰) | Comments(0)

灰を乾燥させる 堀内宗心宗匠からのひと言

***

灰を乾燥させる

灰を乾燥させるというのは、炉灰から風炉灰を作るときの第一工程であります。

原材料は濡れ灰でありますから、いまだ少々水気を含んでいますから、まず軒下などの石の上に新聞紙数枚を重ね、その上に灰を置き、自然の風通しで一日、二日は置いて乾くのを待ちます。

灰が白味を帯びて、指で軽く粉が砕けるくらいになれば、まずまず十分と思いますが、なるべくよく乾かしておいて、少し大きいめの乳鉢に入れてすります。

粒子は、その粒度が小さくなるに従い、色が白くなり、乳鉢の感触も変わってきます。

この粒度がとても大切で、これが灰を押すときの固まり加減に関係しますから、この粒度は灰押し経験の豊かな人に見てもらうのがよいと思います。
以降自分で灰を押してみて粒度感覚を覚えることが大切であります。

乾燥機に入れて乾燥することもできますが、それほどにする必要はなく、また、日当たりのもとで乾かすと、乾燥が不均衡になることもあります。
環境保全のうえからも、なるべく無駄なエネルギーを使わない方が好ましいと考えられます。

***


ここでは、風炉灰の作り方。

>粒度がとても大切
>自分で灰を押してみて粒度感覚を覚えることが大切

たしかに。

僕の風炉灰はちょっと磨り過ぎて粒度が細かくなり過ぎたかな?
と最近心配してたところ。
というのは、灰形をつくっていて、ちょっと落ち着かないのだ。
なんというか、ポワッとする。
また、鱗灰が作りやすい、というか、灰が崩れる時の崩れ方がうろこ状になっている感じ。

>環境保全

にも言及なさるあたり、さすが。
科学する茶人の面目躍如。

茶人はエコロジストならざるをえない、というのは、僕の持論でもある。
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by so-kuu | 2012-08-28 06:50 | 湯相・火相(炭・灰) | Comments(0)

五徳を洗う

***

五徳を洗う (堀内宗心宗匠からのひと言)

使用したあとに五徳を洗うということは、保存上大切なことであります。
ただし、その目的は鉄の赤さびをつけないためであります。

五徳を洗うには、まず灰から抜き取り、新聞紙などの紙の上で、小さい棕櫚箒などでよく灰を掃き出し、それから、水洗いして灰を落とし、熱い湯に入れ、五徳の熱いあいだに、手早く乾いた布で入念に、すみずみまで完全にふき取り、しばらく風通しのよいところで一日くらい乾燥してから箱に入れます。
このとき、五徳は布などで包まず、むしろ、そのまま入れて紙を丸めて詰める程度にしておくことが鉄さび防止の手立てであります。

また、紙の上で灰を落とすのは、灰を大切に回収するためであります。

五徳を使わないときは、土蔵などに入れたままになりやすいですが、時折は箱から出して乾かすか、もしもさびの気配があれば手当てをして、洗い直して保管することが大切であります。

***


たまには五徳をみよう。

とすると、

道具庫では、箱にも入れず、包まずに置いておけばよいのでは?
月ごとに道具を入れ替える際に、道具庫でイヤでも五徳が目に入れば、さびの兆候などにも気付きやすいのでは?
いや、やはり桐箱などで湿気がまとわりつくのを防ぐべきか?

楽しく工夫しよう。

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by so-kuu | 2012-08-28 06:45 | 湯相・火相(炭・灰) | Comments(0)