カテゴリ:茶禅一味( 38 )

一座建立という奇跡

同じ時を生きて

同じものを見ても

人は

それぞれの物語の中で生きていて

それぞれの見たいようにモノをみている

のかもしれない


してみると

誰かと

同じ時間を過ごし

同じモノを見つめ

そして、かつ

共に楽しむ

ということは

本当に貴重なことなのかもしれない


一座建立

という言葉は

わりと簡単に口にされているけれど

実は

ごく稀なことなんだろう


一会において

それぞれの思いと視線とが

どこかで交わるような

そんな友と出会うことが出来

そんな茶の湯が出来たなら

楽しいだろうな
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by so-kuu | 2013-05-07 23:22 | 茶禅一味 | Comments(0)

みたいようにしかみない

前に

ひとは、それぞれに、
あるものを、自分のみたいようにしかみていないのかもしれない


ということを書いた

思えば


ひとは

自分のものがたりを生きているのでは?

この世界を、自分の思う物語として見て、その中で生きているように思う


(ちょっと書き留めておく)
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by so-kuu | 2013-05-07 12:09 | 茶禅一味 | Comments(0)

「直心是道場」

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見慣れたはずの扁額を再発見した朝


まさしく


直心是道場
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by so-kuu | 2013-01-06 08:00 | 茶禅一味 | Comments(0)

new morning

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by so-kuu | 2013-01-06 07:30 | 茶禅一味 | Comments(0)

before dawn

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by so-kuu | 2013-01-06 05:30 | 茶禅一味 | Comments(0)

「直心」とは・・・? (あるがまま、飾らず、嘘なく・・・)

直心


に参じる今年






さて


「直心」ってなんだろう?


言葉通りに言えば、

“真っ直ぐな心”とか

“素直な心”とか


いやいや、禅語だよ、などと人の云う

確かに

でも
そんなことも
どうだっていいのだ


おい、オレ?

直心とは何ぞや?


・・・いや、わからん

不識

しらんわい!



それでいいのかも


ただ



思うのは



感じているのは


あるがままにありたい


飾らずにいたい


心に嘘なく生きたい



そんなことどもだ・・・


そうして


日々を生きてみん




(癸巳年元日に)
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by so-kuu | 2013-01-01 21:00 | 茶禅一味 | Comments(0)

「直心是道場 無虚假故」 (維摩経)

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「直心是道場」

との文句は『維摩經』の一節


***


(元文)

「佛告光嚴童子。
汝行詣維摩詰問疾。
光嚴白佛言。
世尊。
我不堪任詣彼問疾。
所以者何。
憶念我昔出毘耶離大城。
時維摩詰方入城。
我即為作禮而問言。
居士從何所來。
答我言。
吾從道場來。
我問道場者何所是。
答曰。
直心是道場無虚假故。」


(語注)

問疾(もんしつ);見舞い。
憶念(おくねん);心に思って忘れないこと。
毘耶離(びやり);ヴァイシァーリー。北インドの城市。維摩詰が住んでいた。


(読み下し)

仏、光厳童子に告げて、
汝、行きて維摩詰に詣で疾を問え。
光厳、仏に白して言く、
世尊、我れ彼を詣で疾を問う任に堪えず。
所以何となれば、憶念するに我れ昔、毘耶離大城を出る。
時に維摩詰まさに入城す。
我れ即ち作礼を為し問うて言く、
居士、何所より来る。
我が言に答え、
吾れ道場より来る。
我れ、道場は何所是と問う。
答えて曰く、
直心これ道場、虚仮なき故に。)


(現代語訳)

仏が
光厳童子に維摩詰の見舞いに行けというと、
光厳は、
私は彼の見舞いに行くことができません、
なぜなら、忘れもしません、
昔、ヴァイシァーリー城を出ようとするとき、維摩詰が城に入ってきたので、
礼をして何処から来たかと問うと、道場より来たといい、
私が道場は何処にあるのかと問うと、
清純な心がそのまま道場なのだ、うそいつわりがないから
と答えた。


***



「直心是道場」

という言葉は有名で

茶席の一行物としても、よく見るけれど


僕にとっては、

「直心是道場 無虚假故」 

全体で捉えたいもの


"虚仮なき故に”

が大事だと思う

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by so-kuu | 2013-01-01 18:00 | 茶禅一味 | Comments(0)

直心 (2013年癸巳元旦に)

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***


直心


***



今年はこれに参じます
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by so-kuu | 2013-01-01 08:45 | 茶禅一味 | Comments(0)

檻前山深水寒

檻前山深水寒


『碧巖録』
第二則
趙州至道無難の一節


「至道無難 言端語端
一有多種 二無両般
天際日上月下 檻前山深水寒
髑髏識尽喜何立 枯木龍吟銷未乾」
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by so-kuu | 2012-09-12 06:30 | 茶禅一味 | Comments(0)

賓主歴然 ひんじゅれきねん

賓主歴然 ひんじゅれきねん

(『臨済録』 上堂)

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より



是の日、両堂りょうどう
の首座しゅそ
相見、同時に喝かつ
を下す。僧、師に問う、「還って賓主有りや」。師曰く、「賓主歴然」。師曰く、「大衆たいしゅ
、臨済りんざい
が賓主ひんじゅ
の句を得んと要せば、堂中の二首座に問取もんしゅせよ」。便ち下座す。

 臨済禅師の時代は雲水(修行者)が大勢いたので、僧堂も東西の両堂に分かれ、その各々に首座がいて、修行者を指揮統率して切磋琢磨、修行に励んでいました。
 ある日、その両堂の首座が出合い頭に、同時に、「喝」を下します。その場に居合わせた一人の僧が臨済禅師に尋ねます。「両首座が同時に同音に喝を下し合いましたが、その間に賓主がありますか」。臨済禅師は、「賓主歴然――はっきり賓主がある!」と言い放ち、「若しその辺の消息を会得したければ、両堂の首座に聞いてみろ!」と云って、さっさと部屋に帰ってしまいます。
 賓主歴然、何の事でしょうか。賓とは賓客の事、主とは亭主の事、見る主観と見られる客観、即ち、自己と自己の前に拡がる万物の事です。禅の悟りは自己と万物と一体同根の消息です。その消息を「自己」の立場より見ればすべて一味平等、差別がありません。賓主無しの端的です。また、万物の立場より見れば、万物は各々個性を持ち、男は男、女は女、老は老、幼は幼、大は大、小は小と、それぞれ独立して差別歴然としています。賓主歴然の消息です。しかも、自己と万物は一体同根ですから、平等と差別は表裏一体にして、別者ではありません。平等でありながら差別があり、差別でありながら平等である。即ち、平等即差別、差別即平等の世界です。両堂の首座が同時に同音に一喝したのに、「賓主歴然」と臨済禅師が喝破したのは賓主があって賓主なし、賓主がなくて賓主がある、平等即差別、差別即平等の当処を示そうとしたのです。
 世間を見れば、男女、親子、師弟、老幼、賢愚、美醜、大小、長短、いろいろと差別があります。その差別だけでは封建的な差別社会になってしまいます。また、平等だけでは、みそもくそも一緒になって、悪平等です。平等即差別、差別即平等とは、そういう差別を認めながら平等であり、平等であるが差別があると云う事です。男は男、女は女、老は老、幼は幼、師は師、弟は弟とその立場を守って、その上での平等と云う事です。人間的には男と女、老と幼、師と弟は平等であるが、各々歴然と差別を認める、賓と主を区別する所に社会の和が保たれるのではないでしょうか。
 豊橋の長円寺に三十八歳の若さで住した月舟宗胡和尚(一六一八~一六九六)の逸話です。月舟和尚はある時、先住職(隠居)の透関老僧と共に領主の板倉重宗に招かれます。重宗は中国人の書を取り出して、「難解なので読んでほしい」と月舟に手渡そうとします。月舟はその書を老僧に渡して読んで下さるように頼みますが、老僧は、「いや、長円寺の住職は貴公だ」と云って、月舟に勧めます。月舟は老僧に深く頭を下げ、その書を読み始めますが、ややあって、書の二、三ヶ所の読み方を老僧に聞きます。老僧も控え目に、「かくかく読むのではなかろうか」と答えます。月舟は老僧に謝しながら、全部読んで重宗に聞かせます。月舟は自分で読めても、あえて老僧を立てて問うたのです。重宗は、若い月舟が老僧の透関に花を持たせ、老僧もまた、月舟を引き立たせようと控え目に振る舞う態度に感動します。
 師である透関、弟子の月舟、各々の気くばり、まさに賓主歴然の当処です。
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by so-kuu | 2012-08-01 23:32 | 茶禅一味 | Comments(0)