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カテゴリ:茶の湯とは…( 21 )

茶の湯とは、アート、である。



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茶の湯とは、アート、である。

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追記:

茶の湯は日本の伝統文化です
とか
お茶とはおもてなしの心です
とか
茶道とは心を磨く修練の道です
とか
そんな風によく聞くけれど

そんな風に大上段から立派なことを仰っても

実際の茶の湯そのものが面白くないんじゃなー



一茶人が、一茶人として、
実際の茶事において
ナニカをあらわし
ナニカをなさないと

数寄出来たり!

とならないと、茶の湯ではないんだろう

つくづく感じたことであった






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by so-kuu | 2014-03-19 22:32 | 茶の湯とは… | Comments(0)

茶の湯とは、癒し、である。

 
 
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茶の湯とは、癒し、である。

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すくなくとも、今の僕には、茶の湯はひとつの癒しだ。
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by so-kuu | 2014-01-22 22:26 | 茶の湯とは… | Comments(0)

まずは一献、改めて、お茶

***


自分の家に
お客を呼んで
お茶を一服差し上げる

なのだけれど

ただお茶一服、というのでは
ちょっと足りない

まずは
一献差し上げて
そして
改めて
一服のお茶

それが大事なんです

やってみてごらんなさい

***



やってみれば

きっとわかるだろう

それが茶の湯なのだと

その全てが茶の湯なのだと
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by so-kuu | 2013-04-08 12:21 | 茶の湯とは… | Comments(0)

本当のお茶とは、自分に出来るお茶、である。

 
 

***


自分にはとても茶事は出来ない

という人がいる

それはね、

先生と同じ茶の湯をやろう、と思うから、自分には同じことは出来ない、となる


あのね、

本当のお茶って、

自分に出来るお茶

なんですよ


***







追記:


激しく同意


名物道具も

素敵な茶室も

立派な茶会も

そりゃいろいろあるだろうけれど


結局

よそさまの茶の湯はよそさまの茶の湯

自分の茶の湯ではないのだ


逆に言えば、

自分に出来ることだけが自分の茶の湯なんだ

ということ


また

いつかは、いずれは、と

現時点で出来ない茶の湯を思い描いていても

それは今の自分の茶の湯ではない

「先生のようなお茶を」なんていうのは

思い込み、妄想、あるいは見栄だ


それより

今出来ることをやって、経験を積むことだ


いま・ここ、で、自分に出来ることを、精一杯、潔くやればいいのだ

それしかないんだな


他是不吾!

更待何時!


誰がやるか? (だれかさんじゃない)自分でしょ?

いつやるか? (いつか、ではなく)今でしょ?


いざ!

いま・ここ!
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by so-kuu | 2013-04-08 12:08 | 茶の湯とは… | Comments(0)

【番外】 個性とは・・・? 茶の湯とは・・・?

TVをつけたら

『オデッサの階段』という番組に

建築家・隈研吾氏が出ていた


番組曰く、

「隈研吾の個性とは、揺るぎない自信である。」

そうなのか、どうなのか、僕は知らないけれど


うーん


個性とは?とか

自信が個性だ、とか


世間では、とかく、


個性、個性、と言う

個性ということ、を問題にする


けれども


そもそも

個性、ってそんなに問題?

個性、個性と言わなければいいだけの話じゃないのかな?


“美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない”

と、小林秀雄は言った


同じく

個人、個人があって、「個性」というようなものはないのだ

ということじゃあないのかなー?


***


追記:

このBLOGは僕のメモなのだけれど

『茶の湯とは・・・』

なんて名前をつけた


けれど


茶の湯をする、

そこに茶の湯があるだけであって、

「茶の湯とは・・・」などというようなこと

あるいは

茶の湯というようなもの

なんて、どうでもいいんだろうな
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by so-kuu | 2013-02-07 23:42 | 茶の湯とは… | Comments(0)

いちいち、お茶、お茶、言わなくていい時代が来たらいいですよねえ。 ~木村宗慎さんの言葉

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いちいち、お茶、お茶、言わなくていい時代が来たらいいですよねえ。

木村宗慎


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ですよねえ。

全く同感だ。


(…「茶の湯とは・・・」なんてことを色々書いておきながら、こう言うのも何なんだけれど、本当、そうなのだ。)







追記:


上記は、“茶人であることのジレンマ”について、氏が語ったもの。


ところで、

僕は、「茶人」というものになろう、と思っていない。


もちろん、いわゆる茶道の稽古を積んでいるけれど。

それも、ただ、僕の茶の湯をする、その日のためだと思っている。


僕の茶の湯をを誰かと分かち合えたらいいな、とは思うけれど。

不特定多数の「お茶人さん方」と茶会をしようとか、「自分の茶の湯を世に問いたい」とか、思わない。

ましてや、いわゆる茶道を知ってもらいたい、とか、いわゆる茶道を普及させたい、なんて考えたことがない。

自分のやりたい茶の湯をして、自分の呼びたい人をお呼びする、それだけ。

自分のやりたくない茶の湯には構わなければいいし、自分が呼びたくないひとは呼ばない、それだけ。


だから、ジレンマなんかを抱えることもあまりなくて。


さっぱりと、身軽なもんだ。


これからも、空に浮かぶ雲のように、ふわふわと、のんびりと、悠々と、颯々と、行きたいもの…。
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by so-kuu | 2013-01-23 12:00 | 茶の湯とは… | Comments(0)

【番外】 茶道について色々瑣末な誤解が生じるのは、茶の湯本来の姿と組織運営上の妥協のひずみ

ネット上で、こんな文章を見つけた。

***

■お茶って、もともと閉鎖的なものなんです。
利休は『亭主の経験のない者を茶会に呼ぶな』といったそうです。
茶事を営む心配りと気遣いが分からない人への理解と優しさなんてなかったんですね、少なくともあの人は。
利休と同時代の他の茶人だってそうです。
庶民と寄り集う大茶会を喜ぶお茶人なんて、いなかったでしょう。
分かる人たちとより集い、言葉多く語ることなく、見れば、一目でソレとわかるもてなしの心を瞬時に悟ってありがたく受け取り、亭主の心に応えるように、客も気配りをする…
そういうことが出来る人たちの閉鎖的な社交が『茶』
だと思います。
本来は、ね。
でも、茶道界は、それでは成り立たないので・・・。
茶道について色々瑣末な誤解が生じるのは、そういう本来の姿と組織運営上の妥協のひずみだと思います。

***

全うなご指摘だと思う。


利休居士が何と言ったか?には神話的なことも多いし、実際にどう考えていたのかはなかなか知り得ないけれど

たしかに

創成期の茶の湯はわずかな数寄者だけの閉鎖的な社交だった、というのは事実だろうな。

「一目でソレとわかる」とか「もてなしの心を瞬時に悟」るのは、茶人としては不可欠の素養であり、
その力量を磨いていくのが茶人として当然の修練。

そういう茶人と茶人が、呼んだり呼ばれたりして楽しんだのが、茶の湯という遊びの原初の姿だろうと思う。

セレブか庶民か、はどうでもいいとして。
顔も素性も知らない不特定多数が同席する、昨今の「大寄せ茶会」は、僕にも、ずいぶんつまらないものに思える。

見ず知らずの亭主と客が、見栄をを張りあったり、お追従を述べあったり。
客同士が「お正客譲り合いの儀」を演じたり。
亭主が「会記」を当然のように自ら出したり。
客も会記に頼りきってご亭主と会話を作らなかったり。
見ず知らずのご亭主の大切なお道具をベタベタと触ったり。
茶会で観たお道具について、他所で色々と吹聴したり。
ギュウギュウ詰めの茶席を1日何回まわせたか、を得意にしたり。
行列に並ばずに、ヒョイと一番の席に座り、平気で正客を務めたり。

そんな醜さをそこここに晒してまで、大寄席茶会というシステムを回していかなきゃいけない理由があるんだろうか?

それが、
「茶道界は、それでは成り立たないので・・・。」
という部分なんだろうか?

「茶道について色々瑣末な誤解が生じるのは、そういう本来の姿と組織運営上の妥協のひずみ」

「茶道についての瑣末な誤解」とは、茶道はよいものだという立場に立っての弁護であり、希望的観測だろう、と思うけれど。

組織を運営することは、それはそれであって、それは茶の湯そのものとは別問題だ。

また、茶道界を成り立たせる、組織を運営する、といういうことは、大事なのかな?


幸い、僕には、「茶道界」も「組織」も「運営」も関係ないなー。

これまでも、これからも、そうしたものとは、出来る限り距離を置いて、さっぱりしていたいと思う。

なので、
僕は、基本的に、「大寄せ茶会」を相手とせず、というスタンスでいこう。

かく言う僕も、現実に、いわゆる大寄席茶会に出食わすことはある。
そんな時は、静かーに、その場に居合わせるようにいしている。
美しいものごとをよく見出し、
醜いことどもをやり過ごして、
最大限、その場を楽しみ、その場から学ぶようにしている。

そして、心の中でそっと、

「大寄せ茶会」やそれを推進するシステムと“自分の茶の湯”とは別物だ

とつぶやいている。


まあ、

それぞれが、それぞれに、思い思いの、自分の茶の湯をすればいいんだ。
その中の、どこかで、だれかが、本当に面白い茶の湯をしていれば、それでいいんだと思う。



追記:

「茶の湯とは・・・」というカテゴリーでは、原則、ひと言、ワンセンテンスで言いきることにしている。

なので、このページは【番外】とした。

この辺のことって、みなさん、いろいろに考えているところかと思うけれど。

僕も、いろいろ思うところはあるけれど。

それでも、僕は、シンプルに、さらさらといきたいもの。
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by so-kuu | 2012-12-18 22:24 | 茶の湯とは… | Comments(0)

茶の湯とは、人・物・時間が出会う場所を作る文化、である。(木村宗慎氏の言葉より)

***

お茶っていうのは、
僕は、
人と人、そしてモノと人、時にはモノとモノ、そして、場所と場、
そういう人やモノや時間というのが出会う場所をつくる文化、
だと思っているんですよ

***

(木村宗慎)



なるほど

そういうふうにも言えるなあ
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by so-kuu | 2012-11-13 23:32 | 茶の湯とは… | Comments(0)

茶の湯とは、ヒトも自然と識る遊び、である。

***

茶の湯とは、ヒトも自然と知る遊び、である。

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追記:


先に、


***

茶の湯とは、ヒトと自然が出会う遊び、である。

***


と書いたけれど
もとより、これは不完全だ

これでは、ヒトと自然とが別物じゃないか

「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして」

では、我と南無阿弥陀仏が別物だ、我と仏が別物だ、と言うのと同じ

これでは十分言い尽くしてはいない


だから、言い替えよう


***

茶の湯とは、ヒトも自然と知る遊び、である。

***


または


***

茶の湯とは、ヒトも自然と識る遊び、である。

***



よし


これならよし



これが、僕の茶の湯だ







関連記事:



花と虫とヒトと ~ 茶花・挨拶・侘び、ということ

カテゴリ:自然ということ

空 (2012年壬辰元旦に)



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by so-kuu | 2012-11-10 23:30 | 茶の湯とは… | Comments(0)

茶の湯とは、ヒトと自然が出会う遊び、である。

***

茶の湯とは、ヒトと自然が出会う遊び、である。

***














追記:


僕は、ある時、
友人と山歩きをしながら、

***

茶の湯とは、人と人とが出会う装置である。

***

と言ったらしいけれど。


それ以上に強く思っているのは、

***

茶の湯とは、ヒトと自然が出会う遊び、である。

***

ということだ。


そして、ヒトが自然と出会えるような茶の湯を、僕はしたいと思っている。


この言葉、この話には、続きあり…
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by so-kuu | 2012-11-10 23:00 | 茶の湯とは… | Comments(0)