2012年 12月 18日 ( 1 )

【番外】 茶道について色々瑣末な誤解が生じるのは、茶の湯本来の姿と組織運営上の妥協のひずみ

ネット上で、こんな文章を見つけた。

***

■お茶って、もともと閉鎖的なものなんです。
利休は『亭主の経験のない者を茶会に呼ぶな』といったそうです。
茶事を営む心配りと気遣いが分からない人への理解と優しさなんてなかったんですね、少なくともあの人は。
利休と同時代の他の茶人だってそうです。
庶民と寄り集う大茶会を喜ぶお茶人なんて、いなかったでしょう。
分かる人たちとより集い、言葉多く語ることなく、見れば、一目でソレとわかるもてなしの心を瞬時に悟ってありがたく受け取り、亭主の心に応えるように、客も気配りをする…
そういうことが出来る人たちの閉鎖的な社交が『茶』
だと思います。
本来は、ね。
でも、茶道界は、それでは成り立たないので・・・。
茶道について色々瑣末な誤解が生じるのは、そういう本来の姿と組織運営上の妥協のひずみだと思います。

***

全うなご指摘だと思う。


利休居士が何と言ったか?には神話的なことも多いし、実際にどう考えていたのかはなかなか知り得ないけれど

たしかに

創成期の茶の湯はわずかな数寄者だけの閉鎖的な社交だった、というのは事実だろうな。

「一目でソレとわかる」とか「もてなしの心を瞬時に悟」るのは、茶人としては不可欠の素養であり、
その力量を磨いていくのが茶人として当然の修練。

そういう茶人と茶人が、呼んだり呼ばれたりして楽しんだのが、茶の湯という遊びの原初の姿だろうと思う。

セレブか庶民か、はどうでもいいとして。
顔も素性も知らない不特定多数が同席する、昨今の「大寄せ茶会」は、僕にも、ずいぶんつまらないものに思える。

見ず知らずの亭主と客が、見栄をを張りあったり、お追従を述べあったり。
客同士が「お正客譲り合いの儀」を演じたり。
亭主が「会記」を当然のように自ら出したり。
客も会記に頼りきってご亭主と会話を作らなかったり。
見ず知らずのご亭主の大切なお道具をベタベタと触ったり。
茶会で観たお道具について、他所で色々と吹聴したり。
ギュウギュウ詰めの茶席を1日何回まわせたか、を得意にしたり。
行列に並ばずに、ヒョイと一番の席に座り、平気で正客を務めたり。

そんな醜さをそこここに晒してまで、大寄席茶会というシステムを回していかなきゃいけない理由があるんだろうか?

それが、
「茶道界は、それでは成り立たないので・・・。」
という部分なんだろうか?

「茶道について色々瑣末な誤解が生じるのは、そういう本来の姿と組織運営上の妥協のひずみ」

「茶道についての瑣末な誤解」とは、茶道はよいものだという立場に立っての弁護であり、希望的観測だろう、と思うけれど。

組織を運営することは、それはそれであって、それは茶の湯そのものとは別問題だ。

また、茶道界を成り立たせる、組織を運営する、といういうことは、大事なのかな?


幸い、僕には、「茶道界」も「組織」も「運営」も関係ないなー。

これまでも、これからも、そうしたものとは、出来る限り距離を置いて、さっぱりしていたいと思う。

なので、
僕は、基本的に、「大寄せ茶会」を相手とせず、というスタンスでいこう。

かく言う僕も、現実に、いわゆる大寄席茶会に出食わすことはある。
そんな時は、静かーに、その場に居合わせるようにいしている。
美しいものごとをよく見出し、
醜いことどもをやり過ごして、
最大限、その場を楽しみ、その場から学ぶようにしている。

そして、心の中でそっと、

「大寄せ茶会」やそれを推進するシステムと“自分の茶の湯”とは別物だ

とつぶやいている。


まあ、

それぞれが、それぞれに、思い思いの、自分の茶の湯をすればいいんだ。
その中の、どこかで、だれかが、本当に面白い茶の湯をしていれば、それでいいんだと思う。



追記:

「茶の湯とは・・・」というカテゴリーでは、原則、ひと言、ワンセンテンスで言いきることにしている。

なので、このページは【番外】とした。

この辺のことって、みなさん、いろいろに考えているところかと思うけれど。

僕も、いろいろ思うところはあるけれど。

それでも、僕は、シンプルに、さらさらといきたいもの。
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by so-kuu | 2012-12-18 22:24 | 茶の湯とは… | Comments(0)