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金戒光明寺 西翁院 紫雲庵(「淀看の席」)藤村庸軒作

金戒光明寺へ

西翁院が久々の特別公開

「紫雲庵」(=通称「淀看の席」の方が有名か)を
よーくみてみる

金戒光明寺 西翁院 紫雲庵(「淀看の席」)藤村庸軒作_b0044754_13394263.jpg

宗旦四天皇の1人
藤村庸軒の作

本勝手
三畳
下座床
宗貞囲い
というところ

洛中や淀大阪方面を見下ろす
この地の景観に合わせた囲い

傾斜地に立つ本堂床面と茶室の床面が同じなので
少し低い露地から
たたきを経ての
にじり口が高い

金戒光明寺 西翁院 紫雲庵(「淀看の席」)藤村庸軒作_b0044754_13381654.jpg

なので
その手前の石が大きく、また段差も大きい

図録でみると
そのイレギュラーな感じ、狙った感のようなものが気になっていたが
自分の足でこの地に立ち
露地を通って席入までを体験してみると
これはこれで面白いな
そう思えた

刀掛石とおぼしき二段の石が右手にあり
ただ
刀掛けはなかった
はじめはあったのか(そうではないのか)

金戒光明寺 西翁院 紫雲庵(「淀看の席」)藤村庸軒作_b0044754_13394263.jpg
金戒光明寺 西翁院 紫雲庵(「淀看の席」)藤村庸軒作_b0044754_13423330.jpg

にじり口正面に床
落掛の上の壁には釘があり
華鬘形の板額が掛かる
床柱は赤松か
床框は節ありの材
土壁は藁すさ交じり
床は塗りまわし
墨蹟窓が切ってある

金戒光明寺 西翁院 紫雲庵(「淀看の席」)藤村庸軒作_b0044754_13442554.jpg

炉は点前畳に切ってある、いわゆる宗貞囲い
火灯口の向うに下地窓があって
そこから淀が見通せた、とか
窓は他ににじりの上の、とても横長で縦は低い連子窓
突上窓はなし
総屋根裏を見せていて
火灯口上は吹き抜けている
そのあたりが侘びた風情を醸しているし
また
淀の眺めとも相まって
狭さを感じさせず
一種の爽快さを与える茶席に仕上がっている
と感じる

金戒光明寺 西翁院 紫雲庵(「淀看の席」)藤村庸軒作_b0044754_13451529.jpg
金戒光明寺 西翁院 紫雲庵(「淀看の席」)藤村庸軒作_b0044754_13460777.jpg

やっぱり
自分で直接
自分の五感で
体験して
体感してみる事が大事だなー

それから
「千家」なんてものが確立していなかった時代の茶人たちの遺物をみてみる
というのは楽しい

***
史伝を素直にたどって
考えてみれば
宗旦四天皇の1人と言われる
藤村庸軒その人だって
千家の親戚筋と言われる久田家の出(とされる)にも関わらず
籔内紹智→小堀遠州→金森宗和に茶の湯を習っている
その後に千宗旦から台子を伝授されている
これは
千利休切腹後しばらく
親戚・関係者は息を潜めて
千家だなんて言わずに
生き残りをかけて暮らしていた
事を表しているように思う

また
当時の茶の湯には
流儀なんてもの、流儀なんて考え方は
まだなかった
ということだろう

流儀は
特に「千家の茶」なんてのたまうものは
豊臣・徳川への権力移行が進み
時代が落ち着いて
利休の子孫も
一族郎党も一緒に殺されるという心配をしなくてよくなって
千家でござい、と言える世の中になってからの話

茶の湯の主導権は
利休の後
織部→遠州→石州
と移り変わる

武家の式礼の茶
でもある石州流の柳営茶道がスタンダードになったからこそ
逆に
しばらく後の江戸中期以降に
ある意味古風で
また町方な
利休流のわび茶の湯が
特に江戸中期以降に興隆した
町人富裕層を中心に
再評価された
ということもあろう

その頃には
千家流の茶の湯は遊芸化もして
必ずしもわび茶って感じでもなくなってきて
それを受けて
富商と付き合うための方便として
一部の武家も千家の茶を取り入れるようになった
ということだろう
とも感じる

***

閑話休題

とにかく
江戸初期の
まだ定まらない茶の湯
が好きだ

自由で
一人ひとりの茶人が
それぞれの真面目(しんめんぼく)を表している
と思う

淀看の席をあるいてみて

そんなことを感じ
そんなことを想った


翻って

流儀があって茶人がいない

なんてのは

ぞっとしないな







by so-kuu | 2017-01-20 21:05 | 茶室
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