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まあ、ものというのは結局、自分の心を反映するんですかね。
だから所詮、待庵に座って利休を捉えたって思っていても、
結局は自分の心の反映なのかと思ったりもする。
ここにあると仮定する苦悩は所詮、僕の中にあるものなのかもしれない。
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『利休の風景』
の中で、山本兼一さんと対談する、
楽吉左衛門さんの言葉だ
楽さんは、それより前に、
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ともあれ、僕は僕の目線でしか利休を捉えることができないんですが、
僕の身の丈で捉えれば、
やっぱり「利休は表現者だ」という一点でしかない。
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とも言っているんだけれど。
それは、僕から見ると、
楽さんが自分を表現者だと思っているから、
その身の丈で、千宗易という人をも、表現者として捉え、表現者としての部分を見ている、
利休のつくった物を見る際にも、物そのものをみていながら、その表現をした表現者について思う、という作業をしている、
ということだと思う。
面白いことだ。
利休さん自身が自分を表現者だなどと思っていたかどうか?は不明だ
けれど、そういう風にみたい人はそういう風に見る、みようとする
ひとは、
みな、それぞれに、
自分の眼や、また心や思想や、あるいは癖でもって
この世界をみているんだろう。
大勢の人が同じものやことがらをみても
ひとはそれぞれ、
みたいようにみていて、
その景色は全く別のもの
なのかもしれない。