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喜左衛門井戸をみる (井戸茶碗拝見記)

喜左衛門井戸をみた

2009年だったかな?
目黒の美術館で
遠州流ご先代、小堀宗慶宗匠の展覧会にて

あえて、書かずにおいたのだけれど
そろそろ、書き留めておこうかな

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まず、
青磁茶碗「馬蝗絆」と並んで展示されていたのが面白かった
なんたって対照的だから
贅沢、かつ、気の利いた展示方法だと感心

でも
それはさておいて

まずは頭を空っぽにして

その一碗とご対面してみた・・・


喜左衛門井戸をみる (井戸茶碗拝見記)_b0044754_17231218.jpg



・・・なるほど、こりゃ、面白い茶碗だ・・・

そんな感じが、僕にとっての、喜左衛門井戸の第一印象かな

とにかく、見所が沢山あって、見応えがある

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たしかに井戸茶碗だ

特別大きいというわけではない
けれど
決して小さく感じることもない

肌は年経りた感じだな
黄褐色にやや赤みを帯びた、いわゆる枇杷色の肌には、荒々しい変化がみられる
貫入の大小
染みの濃淡
大きな漆繕いのあともある

勢いのある轆轤のためか
伸びやかな広がりのある器形
外側には轆轤目がついている
手にとってもタップリしているんだろうな

口辺りはやや厚め
ぽってりとしたその感じが、いいな、と思う

内側はよくは見えないけれど
底に向かって深く落ち込んでいくよう
貫入の走る枇杷色の肌に、濃茶の緑がさぞ映えるだろうな

腰の削りはやや高く鋭い
高台は竹の節をなしている
高台と腰の周りのカイラギがなんともものすごい
釉はげ、地の土が見られるのも特徴だろう

喜左衛門井戸をみる (井戸茶碗拝見記)_b0044754_17262966.jpg


喜左衛門井戸をみる (井戸茶碗拝見記)_b0044754_17261311.jpg


正面から、また、右から左から
なるべくいろんな向きから見てみる・・・
と、気付くことがある

ひらいた茶碗本体の軸と、高台の軸とがずれている、というか、ほんの少し傾いて見える、ということ

はじめに、轆轤を挽いて茶碗の形を作って、
それを一度糸切りして、轆轤から外して、
逆さにして、また轆轤に載せる、その時に、ほんの僅かに、位置が中心を外し、軸が傾いたんじゃないかな

椎茸の石づきのように、
というか何というか、
言葉にしにくいんだけれど、
なんかこう、ほんの僅かに歪んで見える、
これは、地味ながら、喜左衛門の、一つの特徴かもしれない

*この点、
同じ井戸茶碗では、
・信長井戸(畠山記念館蔵)
に近い、と感じた
あれはかなり傾いていて、なんか不吉な感じがする
“病んでる”感じ
一方、
・細川井戸(永青文庫蔵)
は“健康優良児”タイプだ
いかにもすんなり作られた、って感じ

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さて、

”喜左衛門井戸は、いわゆる井戸茶碗の約束を全て満たしている名碗だ”
とか、そんな風に言う人は多い

井戸の約束・見所と言えば・・・
・雄大な器形
・外側の轆轤目
・「枇杷色」と称する肌の色味
・大小の貫入
・腰の削りと「竹の節高台」
・高台と腰の削りに現れる「カイラギ」(梅華皮)
・高台内の「兜巾」
・見込の「目跡」

これらを満たしていることが井戸茶碗の条件、とか
いわゆる茶道の世界ではやかましく言う

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・雄大な器形・・・たしかに 
・外側の轆轤目・・・たしかに
・「枇杷色」と称する肌の色味・・・たしかに 
 ちょっとカセて荒れているけど深みのある色合いだ
・大小の貫入・・・これがまた結構
・腰の削りと「竹の節高台」・・・これも素晴らしい
 特に、腰の削り位置(=高台高)がニョキッと高い、というのは、大井戸の条件だと思うなあ
 「老僧」が大井戸ほどのサイズながら「古井戸」と呼ばれるのは、ここだと思う
・高台と腰の削りに現れる「カイラギ」(梅華皮)・・・これについては喜左衛門はものすごい
・高台内の「兜巾」・・・これも満たしているみたい(見えなかった)
・見込の「目跡」・・・後述

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実は、

喜左衛門は、全ては満たしていないんだな

喜左衛門井戸には「目跡」はない

一般に、目跡は重ね焼きの跡
ということは、最上段に重ねられた一碗には、当然目跡がない
だから、目跡のない井戸茶碗も当然あっていい訳だ
(確か、「細川井戸」にも目跡はない)

”喜左衛門井戸は、いわゆる井戸茶碗の約束を全て満たしている名碗だ”

と言う人は、

“井戸茶碗中の第一、茶碗の最高峰とも言われる喜左衛門は、約束を全て満たしているに違いない、だから目跡もあるはずだ”

と思いこんでいるのかもしれないなー

いつの間にか、色眼鏡をかけて、よそさんの眼や、耳や、頭で、モノをみているのかもなー

色眼鏡をかけて、喜左衛門をみれば、そりゃ、当然、名碗、ということになるだろうなー

けれど

喜左衛門が名物と言われるのは、約束を全て満たしているから、ではない

それは逆さまだ

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そういう風にならないように気をつけよう

「約束」とか何とか、そういうのを頭に描いてからモノをみると、
そういう予備知識をなぞるようにしかモノを見られなくなる恐れが多分にあり
それでは、目の前にあるモノも、全然見えないだろう

そういうのを、全部、放下して、裸の目玉で出会ったものをみる方が、ずっと面白いように思う

喜左衛門は、そういう後付けの云々を抜きにしても、ただモノとしてカッコイイのだ

という方が全うだ

茶の湯が生まれてからずいぶん経って
いわゆる約束事も随分出来たみたい
でも、そういうのを真に受けていると、フォロワー茶人にしかなれないかもなー

茶の湯創成期のパイオニア茶人たちは、まず、自分の眼でモノを観た
そして、自分の心に映った、その美しいモノを、自分の言葉で語り、綴ったはず
その後で、「口伝」とか、いわゆる「約束」とか、そういうのが段々に出来ていったはずだ

僕も、伝え聞きや、他人の言葉、いわゆる茶道本やなにやの言葉を借りずに、自分の眼でみて自分の心で感じ自分の言葉で語り綴ろう、と思う

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さてさて
いずれにしても、

たしかに、
喜左衛門井戸は、
面白い茶碗、
見所の多い茶碗、
ナニカを感じさせるポイントが多い茶碗なんだと思う

“この茶碗、軸がゆがんでる”と自覚しない人でも、そこからナニカを感じてしまうもんだから、
“この茶碗、気になるな”、“この茶碗、面白いな”、“この茶碗、いいな”
になるんだろうか

変化があるから、
景色も豊か、ということになり、
見所が多い、ということになる

そんなこんなで、

多くの人に語られる茶碗となると、
すなわち、「名碗」となる
という訳かな

この点は、志野茶碗「卯花墻」にも言えるかも?

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柳宗悦は、この喜左衛門井戸を

「何でもない茶碗」

「平凡きわまりない茶碗」

と言ったようだけれど


(*喜左衛門は雑器である、とか、いや、祭器だったはずである、とか、色々やかましいけれど、どっちでもいいな)
(*来歴を知るのもよいけれど、それがまた眼を曇らす、というのでは馬鹿馬鹿しい)


僕は、平凡とは思わないなー

確かに作家性みたいなものはないし

素直にスラスラっと作られたものであろうことは感じる

けれど

平凡な茶碗ではないよなー

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で、

では、

僕にとって

喜左衛門井戸は、井戸茶碗中の第一、茶碗の最高峰、ということになるか?

というと・・・

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現時点では、答えは・・・

No



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どうしてだろう?

もちろん、茶の湯の茶碗として、実によい茶碗だと思っている

特に、ナリと肌は、僕にとっても素晴らしく魅力的だ

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けれど

喜左衛門井戸というある意味強烈な茶碗を使って、

自分の茶の湯として、どんな茶の湯をしようか?

と考えてみると、今の僕には、イマイチぴんと来ない

という気もするのだ

かの名物喜左衛門を前になんと無礼な!?

何という小生意気な!

というお叱りが一部から上がるかもしれないけれど

そんなこと、僕、知らない

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じゃあ、喜左衛門井戸じゃない、どの茶碗が、僕にとってのベスト、マイNo1御茶碗なんだろう?


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そんな井戸茶碗を僕は探しているのかもしれない

それが井戸茶碗でなくてもいい

じっくり考えてみよう・・・・

それ自体が楽しいから・・・

自分の体と心で茶の湯を遊ぼう・・・



(メモ)

by so-kuu | 2013-03-17 17:20 | 茶道具
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