現代の茶道具はあまりに貧困 ~林屋晴三氏の思い

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―東京の新宿・柿傳でおこなっている茶の湯同好会の茶会では、ライフワークとしてかつてない試みをされているそうですね?

茶の世界で用いられている現代の道具があまりに貧困なので七十七歳になった時に宣言して、現代の作家活動をしている人のものを取り合わせてきました。

(中略)

―先生なりの“今”という理念を、もう少し解説して頂けますか?別の言葉にすると前衛的精神を有しているということですか?

自ずからものが語ります。言葉にはならないですね。

(中略)

茶碗とは何ぞやということを見据えて、茶碗を造らないとだめなんです。

(中略)

そういう意味で、長次郎における利休好み、ああいうはっきりとした理念をもつ茶碗は現代に生まれていないような気がします。

―現代に求める茶碗とはどういうものですか?長次郎でもなく、オブジェの前衛でもなく、今を生きる感覚をもつものが存在するはずだということですか?

そうではなくてね。若い人が最近やたらに茶碗を作っていますが、なにか表面的です。
前衛的な造形性を求めた浅い自己主張なんです。
茶碗をオブジェとして造っているのなら構わないけれど、茶碗として造っているなら、一碗の茶を飲ませることへの愛情がほしいと思うんです。
茶碗というものは、人に一碗の茶を飲んでいただくという思いの中から出ないとだめなので、心の豊かさから生まれたものでないと。
表現者としての自己主張を打ち出そうとする茶碗では、濃茶を練ってみても、どうしてもおいしいお茶が点たない。
茶碗においしい茶を点てさせるものがないのでは困るのです。
茶巾で拭いても、ざらざらして中側をまわらない。
自分の表現だけがあって、茶碗として成立するものを捨てていると思わざるを得ない。
みんな今に生きているんですが、理想の茶碗とは何ぞやという点では、何人もそこへ行っていない。
だから僕がやるより仕方ないと思うんだ。

~『名碗を観る』 P244 「誰もやらない現代の茶への挑戦」より


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追記:


そしてこう続く…


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―えっ!今、茶碗をご自身で造るとおっしゃったのですか?

去年からの思いで、
伝世した名碗を凌ぐものは誰も造ってない。
本気で取り組んだ茶碗は、現代では一点も生まれていない。
そこで、僭越ながら、僕自身が造るより仕方がないという境地へ至ったわけです。
僕しかできないと思ったのです。
人が聞いたら非常に不遜かもしれない。
何ができるかも、わからないけれど、そこに挑んで、僕が“今”に生きていれば“今”があるでしょう。
ここへ至って心が鎮まってきて、本気で茶碗を造りたいと思うようになったの。
できるかどうかわからないが。
そんなところにいるんですよ。
げらげら笑うけれど、本気なんです。
でも、樂さんの隣でものを造ることはできないから、蔵さんに、「隣で語らいながら茶碗を造らせてくれないか?」と言ったら、「どうぞどうぞ」って。
心をこめて真剣に削ってみたい。
まずとにかく行くつもりです。
頭で思っているのはありますが、うまくいくかどうか。
いろいろ教えてもらって、自分なりの釉を出さないとね。
考えていることがありますから、いけると思います。
いい悪いは別ですよ。
やってみて、深まっていくと案外いいものが生まれるかもしれないですよ。

~『名碗を観る』 P244 「本気で茶碗を造るぞ」より

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北大路魯山人の「現代茶人批判」では、現代に名作茶碗を生み出すことは難しい、と言うが。

彼の説くところと、林屋さんの思い、茶碗作りの取り組みとは、かならずしも矛盾しない、重なっているところもある、と感じる。

僕は、林屋さんの茶碗を、楽しみに待ちたい、と思う


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by so-kuu | 2012-10-03 21:57 | 茶道具 | Comments(0)
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